以前にペーパードライバー講習でポルシェのカイエンやマカンでの依頼を受けたことがありますが、最初からポルシェでの依頼を受けるわけではなく何度が受講されて大丈夫だと判断できたら依頼を受けることがあります。
ポルシェに限らず高級車でパワーがある車をペーパードライバーさんが運転する時にアクセルを踏み過ぎて「ブオン」とやってしまい制御できなくなると危険ですので依頼を受けるかは慎重に検討させていただいています。
そんなポルシェですが20世紀最高の自動車設計者といわれたフェルディナンド・ポルシェ博士が残してくれたものはあまりにも大きく現在の私達も恩恵を受けています。
フェルディナンド・ポルシェは1875年にボエミア王国(現在のチェコ共和国)で生まれました。
1875年の日本は明治8年です。この翌年に廃刀令が出されたので、まだ刀を差して町を歩いていた人がたくさんいたかもしれません。
フェルディナンド・ポルシェの父はブリキ細工職人で一族には仕立て屋、大工、樽作り、織工、ブリキ細工など職人の仕事をしていた方もいらっしゃったそうです。
父のブリキ細工職人の仕事を兄が継ぐはずでしたが15歳の時、奉公中に機械に巻き込まれて亡くなってしまいます。
跡継ぎ候補になったフェルディナンド・ポルシェは家業のブリキ細工の仕事を手伝うようになりました。
子供の頃から電気に興味を持っていたフェルディナンド・ポルシェは独学で実験などをしていましたが父からブリキ細工に関係ないことは全て禁止されてします。
しかしフェルディナンド・ポルシェは1日12時間の厳しい労働の後に屋根裏部屋で実験を続けていました。
1890年頃、母はフェルディナンド・ポルシェをウィーンの学校に通わせたいと主張しました。
父は妥協案として家からほど近い国立工業学校の夜間部に通うことを許可しました。
それでも父は金属細工の仕事を継がせるつもりでしたが、翌1891年にフェルディナンド・ポルシェは発電機を作り自宅と父の工場に電灯を灯したことで父はフェルディナンド・ポルシェの才能を認めウィーンに出ることを許しました。
1893年にウィーンに出たフェルディナンド・ポルシェは電気機器会社で働きながらウィーン工科大学の聴講生として熱心に学びます。
フェルディナンド・ポルシェは実習生として働いていましたが瞬く間に出世して4年後には検査室長になりました。
オーストリアにも産業革命の波が押し寄せ街には電気が敷かれ始めた時期に、フェルディナンド・ポルシェは以前から注目していた電気を動力源とした自動車(電気自動車)に着目しました。
1897年にモーターに関する特許を申請します。
1897年の日本は明治30年です。
この頃は日清戦争の復興期で産業の発展や社会問題に関心が高まっていました。
この頃は馬車鉄道の時代で街では馬車の鉄道が運行されていました。
この馬車鉄道の時代にエンジンを通り越して電気自動車を考えていたフェルディナンド・ポルシェは並みの人ではない天才だということがわかると思います。
上の画像はヤーコプ・ローナー社時代の1898年にフェルディナンド・ポルシェが最初に作った自動車(電気自動車)です。
同社は馬車メーカーでしたので車体は馬車がベースになっています。
この時フェルディナンド・ポルシェは23歳でした。
フェルディナンド・ポルシェはヤーコプ・ローナー社にモーターの修理を依頼されたことがきっかけで同社に引き抜かれて自動車の開発をすることになります。
1898年に開発した車輪のハブにモーターを搭載した「ローナーポルシェ」は1900年のパリ万博博覧会に出品され試走で観衆を驚かせグランプリを受賞しました。
1898年の日本は明治31年です。
上野の西郷さんの銅像ができた年です。
今から127年前に電気自動車の原型ができていたことになります。
また電動アシスト自転車に用いられるインホイールモーターの先駆けでもあります。
その後もローナーポルシェ・シェイズやローナーポルシェ「ラ・トゥジュール・コンタント」も作りました。
フェルディナンド・ポルシェはバッテリーの重さが電気自動車の進化の妨げになっていると考えガソリンエンジンを搭載して発電しながら走らせるという方法を考案して1900年に試作車のローナーポルシェ・ミクステ・センパー・ヴァイヴァスとして完成させました。
この方式は100年ぐらい後にシリーズ式ハイブリッドと呼ばれるようになります。
125年も前にハイブリッド車と電気自動車の両方を作ったフェルディナンド・ポルシェの恩恵を現在私達は受けていると言っても過言ではないでしょう。
さらに発電に使うエンジンをダイムラー社製のエンジンに変更してローナーポルシェ・ミクステとして市販を開始しました。
1902年には自らハンドルを握りレースにも出場して優勝もしています。
同年兵役についたフェルディナンド・ポルシェは当時のオーストリア皇太子をローナーポルシェ・ミクステに乗せて運転手を勤めたと言われています。
ローナーポルシェ・ミクステは軍用のサーチライトやアーク灯、レントゲンを使用できる程の電源を供給できたため電源車としても高く評価されました。
1906年になるとヤーコプ・ローナー社を去りアウストロ・ダイムラー社に移ります。
ローナーポルシェ・ミクステの特許はアウストロ・ダイムラー社に譲渡されメルセデス・ミクステとして生産されました。
アウストロ・ダイムラー社で技術部長になったフェルディナンド・ポルシェはレーシングカーを開発する機会を得て結果を残します。
レースで1位から3位までを独占した際に1位の車を運転していたのはフェルディナンド・ポルシェでした。
アウストロ・ダイムラー社では航空エンジンも開発し1907年に飛行船のエンジン、1910年には同社としては最初の航空機のエンジンを完成させました。
1917年にフェルディナンド・ポルシェはアウストロ・ダイムラー社の総務本部長に就任し、オーストリア皇帝から勲章も授与されます。
またウィーン工科大学から名誉博士号を授与されたためフェルディナンド・ポルシェ博士という呼び方をされています。
第一次世界大戦後にフェルディナンド・ポルシェは価格の安い小型車が市場に受け入れられると考えたが経営陣には受け入れられませんでした。
経営陣との対立が原因でアウストロ・ダイムラー社を去りました。
1923年、フェルディナンド・ポルシェが47歳の時、本家ともいえるダイムラー・モートーレン社に技術部長として迎え入れられます。
1920年代前半のドイツは第一次世界大戦後の不況が続いておりその対策として1926年ダイムラー社はベンツ社と合併してダイムラー・ベンツとなりました。
そんな中フェルディナンド・ポルシェは1924年から「メルセデス」、1926年の合併後は「メルセデス・ベンツ」のブランドで高性能乗用車やレーシングカーを手がけました。
フェルディナンド・ポルシェは小型車の開発に意欲を見せていましたが経営陣で意見がわかれ否決されてしまいます。
1928年、小型車の開発を否決されたことでダイムラー・ベンツを辞職しました。
メルセデスを手がけたフェルディナンド・ポルシェはダイムラー・ベンツを辞職したのちオーストリアのシャタイアから声がかかりシャタイアに行きましたが経営が苦しくシャタイアはアウストロ・ダイムラー社に吸収されてしまいます。
以前、自分を追い出したアウストロ・ダイムラーでは働く気になれずシャタイアを退社しました。
1931年にポルシェ設計事務所を設立しました。
考案したポルシェ式独立性懸架はアルファロメオ、シトロエン、ボクスホール、モーリスなど多数のメーカーがポルシェ社に特許料を支払ったり、設計を依頼してこの方式を用いました。
1933年、ナチ党がドイツの覇権を握りアドルフ・ヒトラーを頂点とする独裁体制が確立されました。
翌年にフェルディナンド・ポルシェは国民車構想について記した覚え書きをナチス・ドイツ政府の運輸省に提出します。
この国民車構想はアドルフ・ヒトラーの耳にも入り、一般市民でも手が届く大衆車という構想に興味を持ったアドルフ・ヒトラーと会談して賛同を得ました。
1934年にフェルディナンド・ポルシェはナチス・ドイツ政府からフォルクスワーゲン(大衆車を意味します)の独占的な設計製造権を与えられました。
1938年には最終的な試作車として製作してVW38を披露します。
この際、アドルフ・ヒトラーからkdfワーゲン(歓喜力行車)と命名され、この車両は戦後、ビートル(カブトムシ)の愛称で世界的に親しまれるフォルクスワーゲン・タイプ1となりました。
アドルフ・ヒトラーの愛車はメルセデス・ベンツ・770だったといわれています。
このメルセデス・ベンツ・770の開発にはフェルディナンド・ポルシェも関わっていたそうです。
またこのメルセデス・ベンツ・770は昭和天皇も所有していたそうです。
1939年にナチス・ドイツがポーランドに侵攻したことにより第二次世界大戦が始まりフェルディナンド・ポルシェはアドルフ・ヒトラーの意向によりkdfワーゲンをベースとした軍用車両や戦車の設計に携わりました。
第二次世界大戦の終戦後にフェルディナンド・ポルシェはナチス党の政治理念には反対であったがアドルフ・ヒトラーと密接な関係であったことから戦争犯罪人として戦犯容疑者収容所に収容されました。
数週間で釈放されましたがフランスでも言いがかりで逮捕されパリに連行されます。
パリではルイ・ルノー宅の門衛所で寝泊まりしていました。
この時ルノー4CVについて助言を求められ与えています。
この後刑務所で1年7ヶ月の厳しい生活を送りました。
息子が用意した保釈金で釈放されましたが過酷な刑務所での生活で健康を害してしまい、その後は健康状態は良くなかったそうです。
自動車の設計や会社の運営のほとんどを息子のフェリー・ポルシェが取り仕切り、1945年から本格的に量産が始まったフォルクスワーゲンや1948年から生産開始されたポルシェ・356の量産開始を見届けました。
フェルディナンド・ポルシェ博士は1950年に脳梗塞を発症し、翌1951年1月30日に亡くなりました。75歳でした。
またフェリー・ポルシェの次の世代のフェルディナンド・アレクサンダー・ポルシェはポルシェ911を設計しました。
現在、フォルクスワーゲングループの主要株主はポルシェ一族とフェルディナンド・ポルシェの娘のピエヒ一族であり子会社にはフォルクスワーゲン、ポルシェ、アウディ、ベントレー、ランボルギーニ、他にも多数あります。
また金融や交通、物流なども手がける大企業です。
屋根裏部屋で電気の実験をしていた少年が100年以上前に電気自動車とハイブリッド車を作ったり世界的に有名な数々の自動車の製作に携わりました。
アドルフ・ヒトラーは独裁者として世界的に許されない人物とされていますが大衆車やアウトバーンなどの政策(アドルフ・ヒトラー以前から計画されていたそうです)を実行したことは評価されてもいいのかもしれません。
ペーパードライバー講習というすごく小規模な仕事をしている私ですが電気自動車もハイブリッド車もポルシェもフォルクスワーゲンもアウディにもお世話になっています。
フェルディナンド・ポルシェが携わったメルセデスベンツもアルファロメオもルノーにもお世話になっています。
20世紀最高の自動車設計者のフェルディナンド・ポルシェ博士に敬意と感謝を込めてこのブログを書かせていただきました。